創立聲明書 昭和三十八年二月三日
明治末期の文藝協會・自由劇場に始る新劇の歴史は、大正十三年の築地小劇場運動によつて、漸くその軌道に乘つたものと言へませう。が、それから三十餘を經た今日、新劇界は早くも當初の理想と情熱とを失ひ、しかも據るべき傳統はつひに形成されず、依然として混迷のうちに停滞しながら、その不安を専ら獨善的な自己滿足の蔭に糊塗してゐるかに見えます。
新劇が西洋の演劇を範として出發したものである事は、言ふまでもありませんが、その際、當時の運動の擔ひ手達が犯した過ちの第一は、「西洋」の魅力と「演劇」の魅力とを混同し、後者より寧ろ前者の虜となつたことであります。そのために新劇は演劇に奉仕する前に、まづ日本の近代化に奉仕する事になりました。即ち、それは西洋の思想・社會・風俗の新しさに憧れる文明開化運動の一翼を擔はされる事になり、やがて時代の推移と共に尖鋭化して、政治運動へと先細りして行かざるを得なくなつたのであります。
彼等の犯した過ちの第二は、數百年に亙る長い歴史の末端に位する西洋の「近代」あるいは「現代」の演劇に過ぎぬものを、直ちに「西洋」の演劇そのものと誤認した事であります。なるほど西洋においては、それら自然主義・表現主義の運動が、傳統の固定化、形式化による堕落から、演劇を救ひ出さうとするものであつたといふ事實は、あながちに否定し得ません。が、歴史を全く異にする吾が國に移し入れられた時、それらはただ演劇をその傳統から斷ち切り、單に近代的衰?に追込む否定的な役割しか果す事ができなかつたのです。即ち、新劇は日本の演劇傳統に對して全き絕緣を宣言したばかりでなく、西洋の演劇についても、古典の源流にまで遡り、その本質を探らうとする姿勢を採る事なく、現在に至るまで唯ひたすら近代劇・現代劇としての自律と完成とに小成を求めて來たと言つても過言ではありますまい。
しかし、第三に傳統と本質とを無視して、それみづからにおいて完成し、自律性を獲得しようと焦れば焦る程、それは他の藝術や文化とはもちろん社會一般との繋がりを斷たれて、閉鎖的、排他的な世界を形造り、その狹い職業意識の殻の中に閉ぢ籠らざるを得なくなりました。事實、今日の新劇は外部からその未熟と遲れとを絕えず嘲笑されながら、己れと最も密接な關係にあるべき筈の文學や文壇とさへ絕緣し、頑なにその門戶を開かうとしないのであります。
これらの禍根はいづれも築地小劇場運動そのもののうちに潛んでをります。私共もまた多かれ少なかれその弊風に禍されてをりませう。が、その自覺こそ、むしろ私共に残された唯一の共有財産であります。故に私共はみづから勤めて自足の殻を打ち破り、無から出發しようとする決意のもとに、同行相求めて今日に至つたのであります。私共の目的は單に劇團を造る事にあるのではなく、文藝協會・自由劇場設立當時の初心に立ち返り、新劇の目ざすべき「劇」とは何かを問ひ正し、その傳統形成の礎石となることにあります。もちろん私共は演劇が藝術であると同時に娯樂であることを無視するものではありません。ただ、戰前の新劇が觀客に向つて苦行的陶醉を强ひた風潮を否定すると同時に、今日その反動として大衆社會化の波に乘り、いたづらに卑俗安易な迎合に陥りがちな風潮にもまた抵抗を感じるものであります。
ここに私共は現代演劇協會なる構想のもとに演劇集團「雲」を組織し、以上の趣意に基づく行動を開始する事を誓ひ、皆樣の御理解と御支持とをお願ひ申上げる次第です。
初心に還つて、しかし…… | 福田恆存
「もう十年經つてしまつたのか、何もしないうちに」――これが今の私の、そして恐らくは全劇團員の僞らぬ感慨だと思ひます。いや、「何もしないうちに」ならまだしも救ひがありますが、實は色々やつて來た、それにも拘らず、炎天での砂漠に水を撒くのと同樣、すべては、跡形もなく消え去り、殘つたものは「何もしないうちに」というふ呟きのみといふ事になります。
これは雲・欅だけの嘆きではなく、芝居に携る者なら誰しも同じ氣持を懷いてゐるに違ひありません。芝居は成功しようが失敗しようが、すべて跡形もなく消えて行つてしまふものです。報いられぬからといつて後世に想ひを託する事も出來ない、觀てくれなかつた人がいつかまた觀てくれるといふ事もありえない。この世で、その場その場で勝つたところで、後には何も殘りません。
もつとも芝居に限らず、人の世の營みはすべて徒勞、人生もまた半月一月で跡形もなく消え去る芝居と何處に變りがありません。たまたま十周年記念連續公演として取り上げた二つのシェイクスピア劇に次の如き名ぜりふがあります。
あの役者共はいづれも妖精ばかりだ、そしてもう溶けてしまつたのだ、大氣の中へ、あのたわいの無い幻の織物の何處に違ひがあらう、雲を頂く高い塔、倚羅びやかな宮殿、嚴めしい伽藍、いや、この巨大な地球さへ、もとよりそこに棲まふ在りとあらゆるものがやがては溶けて消えるあの實體の無い見せ物が忽ち色褪せて行つたやうに、後には一片の霞すら殘らぬ、吾等は夢と同じ糸で織られてゐるのだ、ささやかな一生は眠りによつてその輪を閉ぢる……。(『テムペスト』より)
この世はこの世、ただそれだけのものと見てゐるよ――つまり舞臺だ、誰も彼もそこでは一役演じなければならない、で、ぼくの役は泣き男といふわけさ。(『ヴェニスの商人』より)
人生が旣に舞臺なら、私共の仕事はその劇中劇、そこで與へられた役が泣き男か泣き女かは知りません、シェイクスピアの口眞似をすれば、それこそお客樣方のお決め下さること、何の役にもせよ、お氣に入りましたら、お手を拜借、そして後五年十年の曲り角を目ざして、もちろん、いづれは大氣の中へ消え去ることは覺悟のうへで妖精よろしく精一杯陽氣に舞ひ續けませう。
今はただ陰に陽に私共の仕事を見守り、心の支へになつて來て下さつた皆樣方に厚く御禮を申上げるのみ、それにしても過去十年を顧みて、どれだけの御恩返しが出來たか、己が非力を顧みて眞に忸怩たるものがあります。逃げ口上のやうですが、この世には貸方と借方の二役あり、所詮は借方でしかない私共が恩返しなど考へるのは僭越なのかもしれません。どうぞお懲りならず、お見捨てなく、いつまでも御贔屓のほどお願ひ申上げます。
創立二十周年を迎へて | 福田恆存
どうやら今年で二十年目です。
その間、いろいろな事件がありました。
最初の十年間は、萬事好調に過ぎましたものゝ、實はその十周年の頃から事は始つてゐたのであります。十周年記念は昭和四十八年の六月にホテル・オークラで行ひましたが、それは箪笥町に在つた最初の事務所を賣り拂つて、この千石に三百人劇場を建てるため、假事務所にゐたためであります。
私はその年の七月末から八月に掛けて、海外旅行を致しました。その留守中の懸案として、雲・欅の對立を何とかせねばならぬと考へてゐた私は、歸國すると同時に、雲は芥川比呂志が、欅は私が擔當するという案を立て、その通りに實行致しました。禍根はそこにあると申せませう。というふのは、三百人劇場の杮落としが行はれたのが翌年の昭和四十九年四月、雲の大量脫出はそのまた翌年の昭和五十年八月のことであります。
二十周年といつても、その後半の約十年間は全く血の滲むやうな苦しみのうちに、役者諸君も研究所や事務局の諸君も懸命になつて働いて來ました。何しろ脫出前の人々の稼ぎを想定して作つた三百人劇場です。それが半減してしまつたのですから、本來なら一時的に芝居を止めてでもと思つたのですが、私共は芝居をやるために集つたのであり、三百人劇場は芝居をやるために造つた劇場であります。虛假の一念といふほかはありません。雲と欅を一體化して劇團「昴=すばる=統る」と名づけ、絕えず二つの稽古場を奪ひ合ふやうにして、今日まで芝居をやつて參りました。
一方、時代は十年前とは較べものにならぬくらゐ一變しました。書物とは言へぬ書物が漫畫といふ名で多くの人々に讀まれ、芝居とは言ひかねる芝居が前衛劇といふ名で流行し、今日、外見上は正に芝居の黄金時代であります。そこでは、演劇から文學を追放しようといふ運動が盛んでありますが、その追放された文學を私どもは丹念に拾ひ上げ、その重荷を背負ひながら、よろよろと歩いてゐるといふのが現狀であります。幸ひ、昴の諸君も虛假の一念に徹して今日まで懸命に努力して参りました。
が、芝居は所詮、お客が居なければ成り立ちません。皆樣方こそ、たとへ數は少からうが、私どもにとつては掛け變へのない理解者であることを信じ、創立三十周年には再びこゝでお目にかゝれるであらうことをひそかに念じてをります。
どうぞ最後までお見捨てなく、お附合ひ下さるやる祈つて止みません。
創立三十周年を迎へて | 福田逸
謹んで新年のお祝ひを申し上げます。
昴の母體たる現代演劇協會が設立されてから、いつの間にか三十年といふ長い歳月が流れてしまひました。顧みましても、一時として順風滿帆と言へる時があつたのか、甚だ心許ない次第です。恐らく、劇團員の誰しも、自分の歩む道に迷ひを生じたことも一再ならずあつたはずです。当然の結果として離合集散もありました。が、そんな時にやはり、恐らく劇團員の誰しもが考へたことは、この昴の舞台を愛し樂しみにしてゐて下さる觀客の皆樣の存在だつたに違ひなく、私どもがその事にどれ程元氣づけられ、勇氣づけられて來たか、言葉に表す術もありません。かうして芝居の世界で生きぬき、劇團を維持し、今年三十周年を迎へられるのも、何にもまして觀客の皆樣のご支援の賜と心から御禮申し上げる次第です。
旣に御承知の通り、昨年度の公演から「創立三十周年記念」と銘打ち、レパートリーも幅廣くお樂しみ戴かうと、古典劇から現代劇まで、或いは悲劇喜劇の別なく、更に本公演の他にも若手主體のサード・ステージ、多くの旅公演と手懸けて參りました。
中でも昴が八年の歳月をかけて練り上げて參りました『セールスマンの死』が昨年度の藝術祭賞を受賞致しました事は、三十周年を目前にした私どもにとり、この上ない喜びであるとともに、大いに誇りと致すところでもあり、これまた、初演、再演、そして數次に亙る旅公演每に皆樣の暖かいご聲援あつての事と感謝申し上げる次第です。
さらに本年は、多くの方の強い御希望に添ひ、三度目の旅公演を前に、三百人劇場で『アルジャーノンに花束を』の三演目の開幕によつて昴の活動が開始され、あたかも『セールスマンの死』の後を追ふやうに、順調な滑りだしを見られるのも私どもにとつては喜ばしい事ではあります。このことは九月に予定される『チャリング・クロス街84番地』にも言へることで、サード・ステージでの初演から數へて、やはり三演目、東京公演の前には關西・名古屋での公演があります。レパートリーに困つての再演は淋しいものですが、多くのお客樣の御要望にお應へしての再演三演は誠に嬉しく、スタッフ、キャスト一同、力の限りの舞臺を更に練り上げてお目に懸けられるものと存じます。
六月のシェイクスピア作品は、昴としては初演となる『お氣に召すまま』、昨年より二年間、劇團の客員演出家として滞在中のリチャード・ホワイト、クリスティン・サンプション夫妻の共同演出となります。お二人は米國屈指の演出家であり、ホワイト氏はシェイクスピアの専門家でもあります。米國人による、しかも氣銳の演出家が昴のシェイクスピアにどんな味附けをするか御期待下さい。
秋の公演は『機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲』、ご存じの通りチェホフの『プラトーノフ』を、ニキータ・ミハルコフが映畫化し大評判になったものを、ミハルコフ自身が再舞臺化した作品です。演出は菊地准が擔當いたします。
それぞれの舞臺が創立三十周年の名に恥ぢぬものとなり、かつ皆樣のお氣に召すやう、劇團が一丸となつて精進致す所存でをります、一層のご指導ご鞭撻のほど宜しくお願ひ申し上げます。
創立四十周年 | 福田逸
劇團雲が旗揚げしたのが昭和三十八年(一九六三年)、劇團欅の結成が二年後のことでした。當時、文學座からの脫退といひ、二劇團制といひ、或いは海外からの著名な演出家の招聘も含め、わが集團は常に演劇界の先端を走り、時に物議を醸し、時に話題を提供して參りました。
劇團昴となつてからも、地域劇團東京演劇祭を十五年に亙つて開催し、海外との演劇交流においては、劇團の招聘、相互訪問公演、そして合同公演と常に他劇團にさきがけ、しかも持續的に新しい試みに取り組んで參りました。
そしてまた、英國随一の演劇學校の協力を得て十年餘りに亙つてワークショップを開催し、自前の劇場を持つ利点を活かして、今や年中行事と化した『クリスマス・キャロル』の公演を十二年に亙つて續けるといつたやうに、時代の移り變はりと友に歩んで參りました。まさに継續は力と言へませうか。
一方、レパートリーといへば、嘗ては我々しか取り上げなかつたやうな作家や作品をどこの劇團でも、或いはプロデュース公演でも取上げるやうになり、結果として、我々の存在の意味が薄れかねない危險が背中合はせにあることも事實です。
創立三十周年記念誌で觸れたことですが、三十年といへば一世代、それからさらに十年の歳月が流れた今、劇團昴は、氣がついたら世代交替が終はつてゐたといへませうか。
このやうに劇團内外の諸情勢は、常に目まぐるしく變遷してをります。その中で、さらに十年二十年と歴史を積み重ねてゆくことの難しさは、誰よりも我々劇團の構成員自身が十分認識してゐることです。
時代に迎合せず、しかも時代の要請に應じ、かつ時代を先取りしてゆくには、我々自身の活力の充實が必要なことは言ふまでもなく、また、さらなる世代交替を積極的に進めるほどの度量も必要とされませう。劇團員一同、弛まぬ努力と精進を重ね、よりよい舞臺創りに励む所存でをります。
かうして、ここに四十周年を迎へられましたのも、私共を支へ應援して下さつた皆樣のお陰に他なりません。心より厚く御禮申し上げるとともに、これからの昴に一層のご聲援を頂きたく、謹んでお願ひ申し上げる次第です。
さよなら三百人劇場 | 福田逸
三百人劇場開場が昭和四十九年、以來まる三十三年活動を續けてきたわけです。長いともいへるし短かつたとも言へます。開場の年には何と十二の作品を舞臺に載せました。その翌年は實に十六作品です。それが三年目には七作品に。さう、この年に劇團雲の分裂、雲殘留組と欅の統合、昴の誕生があつたのです。まさに夢のまた夢です。
さういふ次第で昴の歴史は三百人劇場の歴史とほぼ歩みを同じくしてをり、それはひと言でいへば「茨の道」以外の何ものでもありません。現代演劇協會設立から數へれば四十三年、創立メンバーにとつては、おそらく大きな夢であつた劇場を持つと同時に私達の苦難の道が始まり、老朽化した劇場を建て直す力も無く、今回、心機一轉、零からのスタートを切る覺悟をした次第です。
ここに到るまで、あらゆる可能性を探り思ひつく限りの方策を取つて來たつもりではありますが、全ては結果一つで判斷されても仕方なく、劇場閉鎖は無念の一語に盡きます。
その間、私共を励まし應援し續けて下さつた皆樣にお詫びの言葉もありません。開場三年目のある舞臺では觀客の數が出演者の數より少なかつたなどという笑へぬ(しかし懷かしい)「傳說」もあります。さういふ苦勞を味はひ、分裂時の危機を乘越える強い意志があり、それを支へて下さつた内外のスタッフ・關係者・贊助員の皆樣のお陰があつたればこそ、今日まで劇場を維持することが出來たのです。それを手放すにはそれ相應の決斷と覺悟とが必要でした。が、あまり格好をつけるよりは、老朽化ゆゑと、静かにこの地を去る方がよいのかもしれません。開場以來、本公演、ザ・サード・ステージは言ふに及ばず、發表會や勉強會そして學校の卒業公演などまで足を運んで下さつた方々に心から御禮申し上げます。幾多の舞臺が少しでも皆樣の心に何らかの形をとどめてゐることを祈るばかりです。
いよいよ『八月の鯨』が最後の公演となりますが、劇場を閉鎖しても活動は續きます。來年度は旣に旅公演が二つと地本での企畫公演が一つ、東京での公演が二つ決まつてをります。劇場と稽古場を失つて活動が困難を極めることは覺悟の上ですが、その力は聊かも失つてはをりません。これを機会に大膽な機構改革を進め、皆樣のご期待に少しでもお應へすべく、關係者一同初心に帰つて頑張ります。一層のご支援のほどをお願ひ申し上げます。本當に有難うございました。
五十年の節目 | 福田逸
劇團雲が文學座から脫退して五十年。當時、この現代演劇協會の設立に關つた人々も今や多くが逝去したか、もしくは隱居状態、現役で活躍してゐる人はほとんどゐない。何もかもが雲散霧消、星屑となり果てたとでも言はうか……が、私の中には、雲の創立から今日に至るまで、さまざまの經験が明確に存在し、今もなほ脳裏を去來する。私にとつて、記憶とは單なる過去のいきさつではない。それら全てが現在の私を形作つてをり、現在の私の中にある。
雲初演の『夏の夜の夢』のロビーの興奮も、それぞれの役者の科白癖や、動きに至るまであれこれ思ひ出す。雲、欅の舞臺には幾つかさういふ印象に殘るものがある。『聖女ジャンヌ・ダーク』『億萬長者夫人』『空騒ぎ』『寺院の殺人』……どれも、舞臺の空氣や「匂ひ」のやうなものが記憶と共に立ち昇る。客席にゐた時の感覺が蘇る。
しかし、ふと思ふ、果たして今まで劇場にお出で頂いた觀客諸兄にも、同じやうに記憶や感覺を辿り、現在の自分との繋がりを保ち續けて頂けるのだらうか、と。私が樣々に記憶してゐることどもも、稽古場や劇場に何度も通へたがゆゑの結果ではないのか――『夏の夜の夢』の舞臺の熱氣、『億萬長者夫人』の壓倒的な諷刺の効いた臺詞が醸しだす笑ひの世界、『空騒ぎ』の愉しげな俳優たちの遊び心、これらの舞臺の譬え片鱗であれ、どれほどの觀客が思ひ出してくれるのだらう。それどころか、これらの舞臺を樂しみ笑ひ感動した觀客が、この五十年の節目に一體どれくらゐ存命でいらつしやるのか。
決してペシミスティックにもニヒリスティックにもなつてゐるのではない。ノスタルジックになつてゐるものでもない。十周年の節目に福田恆存が書いてゐる挨拶文をもう一度お讀み頂きたい。全てはそこに書かれてゐる。演劇という藝術は決して後世には殘らない、如何なる名舞臺も、あるいは下手な役者の稚拙な演技も、幸か不幸か何の痕跡をもこの世に遺しはしない。私の記憶を私が次世代に傳へようにも、なまの舞臺の劇場の空氣を再現することは不可能である。全てはうたかたの夢まぼろしと言ふほかない。生きるといふ事はさういふものだらうと觀じてゐる。
五十年前といふと丁度私が中學から高校へ進學した年であり、また、私が大學院を出て敎職と共に芝居の世界に足を突つ込み始めたのが四十年前のことである。つまるところ私の人生は常にこの協會と共にあつた。劇團活動、海外との演劇交流、劇場運營……自負して然るべきさまざまの事業に携はつて來たつもりだが、日本の演劇界に俳優養成の問題を投げかけたことも、協會の仕事として大きな足跡を殘したのではないかと考へてゐる。
この記念誌をそれらの記錄として遺し、五十周年といふ節目に、現代演劇協會の幕を閉ぢることをお許し頂きたい。長い間、多くの方にご緣と御助力を頂いた。心から感謝の意を表しお別れの言葉に代へる。